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目次
琉球唐手(首里手、 那覇手、 泊手)  沖縄伝統空手( 剛柔流、 少林流、 松涛館流、 糸東流、 上地流 )

沖縄(古伝)空手(本部御殿手、 沖縄古伝空手心道流 )

空手の原点は沖縄にあります。

沖縄には固有の武術であった「手(ティー)」が、空手のもとである唐手(トゥーディー)へと変化したといわれていますが、その起源については諸説いろいろあり、どれが正しいのかはわかりません。
唐手の文字が琉球の歴史上にはっきりと現れるのは、唐手佐久川と呼ばれた 佐久川寛賀(さくかわ かんが) おいてである、ということのようです。

唐手は、尚真王(在位1476〜1526)の時代と,1609年の島津氏琉球侵略以後の2度に行われた禁武政策により発展したという説が通説となっています。しかし、侵攻後の禁武政策などは、鉄砲の保有は認められてないものの 士族、またはそれより高い地位にいるものについて刀剣などは所持は認められていたという話もあり、実際のところ比較的緩やかな規制であったということが知られるようになっていて、禁武政策が唐手を発展させたという説は疑問視されています。

沖縄の唐手には、もともと 取手など 投げ技や極めを含むものでありましたが 本土へ伝えられた時、「柔道」との差別化を図るため 拳足を用いるのみの打撃技を強調したものへと変化したようです。

その背景には、昭和に入ってからの 「柔道・柔術」の一部門をして承認されたという結果の 沖縄で独自の発展をしてきたこの「唐手」が、一つの武術として本土では認められない現実を変えようという努力があったのかもしれません。

参考 「空手道 - Wikipedia」 「空手の歴史」



琉球唐手(三大系統)
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首里手(しゅりて)
琉球王府のあった首里に住む首里士族によって継承・発展してきたもの、間合いが遠く、俊敏な動作が特徴とされているようです。

首里手の系統の頂点にいる、松村宗混(まつむらそうこん1809〜1899)は、琉球王の側近として3代に渡って仕えた人物で、空手の稽古で行う巻藁突きは、宗混が学んだ薩摩・示現流(じげんりゅう)の“立ち木打ち”をヒントにしたという話です。

参考 「空手教室 講話資料」 「歴史:首里手系」 「空手の歴史」 「沖縄伝統空手道古武道の人物列伝」


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那覇手(なはて)
那覇は昔より、琉球王国の首都・首里の外港として、東アジア・東南アジア一帯の中継貿易拠点として栄えてきました。
中国とも交流があり、そのため那覇手には交易と共に流入してきたと考えられる福建省系統の南派拳法の影響が濃厚に見られます。

那覇手中興の祖と言える東恩納寛量(ひがおんな かんりょう1853〜1915)は、那覇手の大家であった新垣 世璋(あらかき せいしょう、1840〜1920年/正式名・新垣通事親雲上世璋)に学び、現代へ那覇手を伝える礎を築きました。

高弟には、剛柔流の宮城長順、糸東流の摩文仁 賢和などがいます。

参考 「対談・琉球拳法史の秘密」 「那覇手 - Wikipedia」 「空手の歴史」 「東恩納寛量 - Wikipedia」 「新垣世璋 - Wikipedia

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泊手(とまりて)
琉球の泊村(現在那覇市泊) 山東省からの漂着民から習った武術を基に宗久親雲上嘉隆と照屋規筬が生み出したのが最初、というのが通説となっているようですが、首里手や那覇手に比べると歴史背景については、はっきりとしていない部分もあるようです。

その2人に師事し、中興の祖といわれる松茂良 興作(まつもら こうさく 1829〜1898)は、臆病者と罵られるほど争いを避け、自分から決して先に手を出すことはなかったそうです。

しかし、傍若無人の振る舞いをしていた薩摩藩の武士に立ち向かって懲らしめた話や、廃藩置県後、泊村の持つ村民の共有財産を取り上げようとする 日本政府との交渉の場において、決死の覚悟で断固とした姿勢を貫き,政府を引き上げさせた等の伝が残されています。

参考 「松茂良流空手道 興徳会 」 「沖縄の伝統空手・古武術」 「空手の歴史」 「RYUKYU-KARATE」


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.沖縄伝統空手(流派)
首里手大家
糸洲 安恒(いとす あんこう、1831〜1915)
琉球王国時代から明治にかけて沖縄において活動した唐手家。 那覇手を長浜筑登之親雲上に学び、その後、松村宗混から首里手を学び、また泊手も学んでいるなど幅広く修行していたと云われています。

廃藩置県により琉球王国が消滅した明治の時代、護身術としての唐手を改良し、学校教育に取り入れるなど、門外不出とされ琉球士族にのみ伝えられていた唐手を広く一般に普及させました。

大変な努力家でありその拳骨の一撃による破壊力は、巻藁を立てても一ヶ月ともたず、石垣の表面に皮を当てて突いても、後方の石が飛び出して、頑丈な石垣が崩れてしまったということです。
糸洲 に師事した唐手家たちには、本部 朝基 知花朝信 摩文仁賢和 喜屋武 朝徳 船越義珍など沖縄空手の歴史に名を刻む人々が連ねられています。

1908年に書かれた、唐手の心得を説いた「糸洲十訓」 平安(ピンアン)などの型を創作したことでも知られています。

参考 「すばらしき格闘技・武道・武術の世界」 「沖縄タイムス」 「糸洲安恒 - Wikipedia


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剛柔流(ごうじゅうりゅう)
那覇手中興の祖・東恩納寛量のもとに14歳で入門した宮城長順(みやぎ ちょうじゅん1888〜1953)が開祖。

長順は、師である寛量と同じように中国へと渡るなど武術研究の手を緩めることなく、伝統的な空手の技術と武道の理念を整理・踏襲しながら、体育的、武術的な効果の両面から考え、合理性・科学性を加味させた近代的な空手道を完成させました。

剛柔流命名の由来は、1929年に明治神宮で行われた"御大礼奉祝全国武道大会"の際、奉納演武を行った高弟・新里仁安が流派名を問われ、帰郷後それを聞いた長順が、所有の拳法書「武備誌」の中の「法剛柔呑吐(ほうごうじゅうどんと)」…法は剛柔を呑吐する…を引用して命名したと云われています。

参考 「空手の型:那覇手系の型」 「剛柔流 - Wikipedia」 「空手の歴史」 「沖縄空手STYLE―格闘技通信SPECIAL


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少林流(しょうりんりゅう)
糸洲 安恒のもとで修行を積んだ知花 朝信(ちばな ちょうしん1885〜1969)を開祖とする首里手の流れを汲む流派の一つ。

型における力の抜き方入れ方に特徴があり、力を内から外へと意思的に出し瞬間的に力を集中させる。 内臓を圧迫することもなく呼吸の乱れも少なく、無駄な筋力疲労を避け、集中力を高めることで動作の敏捷性を増すことができると考えられています。

また他系統の手に比べ、攻防においてのスピードを重視しているようです。

参考 「空手の型:首里手系の型」 「おきなわBBtv★文化・生活・芸能★沖縄伝統空手道古武道国際研修センター 沖縄古来の武術「空手」を動画で紹介。」 「知花朝信 - Wikipedia


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松涛館流(しょうとうかんりゅう)
首里手の大家である安里 安恒、糸洲安恒に教えを受けた船越義珍(ふなこし ぎちん1870〜1954)は、沖縄の唐手を東京を拠点として本土へ広めたことにより、近代空手の父とも云われています。

沖縄で三十有余年続けた教員生活を終えた後、学生支援や唐手の普及を始めた義珍は、大正11年 に上京し、文部省主催による第一回体育展覧会にて唐手の演武を行っています。翌6月には、講道館でも唐手の演武と解説を行い、そのまま東京に留まって唐手の指導をするようになりました。
空手史上、初めて段位を発行したり、唐手の表記を空手と改めるなど、本土での普及に大きな貢献をしています。

義珍自身は、生涯自らの流派を名乗ることなく「無流派主義」を貫いたと云われていますが、その系統は一般に松濤館流と呼ばれ、船越義珍はその開祖と見なされているようです。

松濤館流の名は、船越の雅号・松濤に由来。
日本空手道協会、初代最高師範。

参考 「船越義珍 - Wikipedia」  「松濤館流 - Wikipedia


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糸東流(しとうりゅう)
首里手を糸洲安恒より東恩納寛量に那覇手を学んだ、摩文仁 賢和(まぶに けんわ1889〜1952)が、それぞれ師事した両名の頭文字を取り、創設した流派。

技法上の特徴として、突き蹴りだけでなく、投げ、逆技といった技術をも含み、まさに総合武道の様相を呈する、とある。

「守・破・離」 分解組手という記述もあり、これらのことをはっきりと記載しているのは、本土に拠点を置き世界へと広がっている空手の流派としては、あまり見かけないことだと思います。

現在、糸東流空手道は二代宗家 賢和の長男 である摩文仁 賢榮氏(まぶに けんえい 1918年〜)に引き継がれています。
その著書「武道空手への招待」は、学スポーツ科学や身体論の参考図書として多くの大学図書館に備本されているそうです。

参考 「糸東流 - Wikipedia」 「JKF糸東会」 「摩文仁賢榮 - Wikipedia


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上地流(うえちりゅう)
上地流は、和歌山県において上地完文(うえち かんぶん1877〜1948)が開いた道場「パンガイヌーン(半硬軟)流唐手術研究所」が、1940年にその姓を流派名として改名し、現在の上地流となりました。

上地完文の教え方は少数の厳選主義で、入門者は保証人をたてて入門し、その修練も同門以外には稽古風景も見せなかったと言われいて、また、道場外の他人の前で演武することも堅く禁じられていたそうです。

上地流は、「三戦(サンチン)」「十三(セイサン)」「三十六(サンセーリュウ)」などの三つの型を基軸にし、戦後生み出された五つの型に組手を加えてその体系が完成されています。

そのなかでも特に、「三戦」 は重要視され、繰り返すこと3年でようやく次の型へ入れるといわれ、姿勢 呼吸 その型が正しいかどうかを確かめるため、身体を打ち据えるという独特の修練方法は他には見たことがありません。

あるビデオで見た上地流流山会の稽古内容には、チューブを使い 掴み崩し→攻撃するなどあり、興味深いものがありました。

上地流山会の十段 當山清幸師範(とうやま せいこう・座喜味修武館道場)は、上地完文に直接指導を受けた最後の弟子の一人であり、上地流山会の支部は、ここ愛媛にもあるようです。

参考 「空手の型:上地流系の型」 「沖縄空手STYLE―格闘技通信SPECIAL 」 「古伝琉球拳法秘拳会」
沖縄空手 三大流派(上)
當山清幸十段の鍛錬法と形、(三十六)サンセーリュウの演武を見ることができます。ちなみにサンセーリュウの當山清幸十段の演舞自体は、 沖縄の伝統空手・古武術→空手の型:上地流系の型のページで無料配信されています。


精説沖縄空手道―その歴史と技法 (1977年)
発行は上地流空手道協会、上地完文の長子、上地完英監修のもとに作られた本のようです。


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空手道大観という本があるようです。富名腰義珍、摩文仁賢和、知花朝信、など 近代空手史上の伝説的名人達人の写真が掲載されているとのこと、昭和十三年刊の復刻版です。


沖縄(古伝)空手
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本部御殿手(もとぶうどんでぃ)
第11代宗家
本部 朝勇(もとぶ ちょうゆう1857〜1927)は、日本の皇室でいえば宮家にあたる琉球王族の按司、本部家の長子として生まれました。本部家に代々長男のみに継承されていた武術を父より学び、首里手の大家 松村宗棍、糸洲安恒らを邸宅に招いて、唐手を学んだとされています。また、唐手のほかに、取手術、剣術、馬術など、幅広い武術を網羅的に修行していたということです。

本部 朝勇には、ボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦してロシア人ボクサーを一撃で倒したとか、当時東洋フェザー級チャンピオンだったピストン堀口のパンチをすべて捌いてみせたりしたとかの逸話のある、実戦でその唐手の強さを証明した本部朝基という弟がいましたが、朝勇が父より学んだされる武術は、明治時代の複雑な状況の中で本部家とは血縁関係の無かった上原清吉氏に引継がれていきます。

この武術は第12代宗家となった上原清吉氏が一般に公開するまで、無名の存在でありました。
そのため歴史がどこまで遡れるのか、その歴史性については定かではありません。
ちなみに本部御殿手は 朝勇氏が『御主加那志前の武芸』と呼んでいたものを、上原清吉氏が改名したものです。

本部御殿手の技術体系は、体術と武器術に分かれておりそれらが、基本技、実戦技、奥義という段階に分けられているようです。

現在、本部御殿手は、本部朝基の子息 本部流宗家・本部朝正氏が継承することで、本部家に帰ることになりました。


参考 「http--www.ichigeki.co.jp-o_style-20040820.html」 「本部朝勇 - Wikipedia」 「本部朝基 - Wikipedia」 「上原清吉 - Wikipedia」 「琉球王家秘伝本部御殿手の技術体系」
本部朝基と琉球カラテ
空手道黎明期に活躍しボクサーとの試合や多くの他流試合に連勝して、空手の実戦性を証明しつづけた伝説の拳豪『本部朝基』の研究を主軸として、空手道発祥の地「琉球の歴史」から紐解いた唐手術史と、多くの記録や口碑から黎明期に生きた唐手家(空手家)達の生きざまを綴ったものである。
第一章と第二章には本部が著した幻の空手書籍「私の唐手術」と「沖縄拳法唐手術(組手編)」を復刻した。(リンクページ・商品説明より)


琉球王家秘伝武術 上原清吉 本部御殿手
空手を生み出した沖縄武術界において、神秘の武術と言われる“本部御殿手”。琉球王家のひとつである本部家に一子相伝として伝わり、技はおろかその存在すらも秘密とされてきた幻の武術。
今作では、一撃で相手を仕留める究極の戦闘武術の全貌に迫る。(リンクページ・商品説明より)


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沖縄古伝空手心道流(おきなわこでんからてしんどうりゅうorしんとうりゅう)
心道流は、知花 朝信を流祖とする、少林流の流れをくむ流派の一つ。初代会長は、座波 仁吉(ざは にきち1914〜)沖縄県那覇市生まれ。

父・兄が空手をおこない、幼い頃より空手に触れることが自然な家庭で育った、座波 仁吉氏は、幼い頃からその稽古を目にしながら自然と空手を身につけていきました。

特に住居のあった首里の鳥堀は、知花 朝信など本物の空手家が多い環境であったらしく知花道場の高弟であった兄、座波 次郎は、喧嘩がどこかであると「座波を呼んでこい」の一言で、場が収まったといわれているほどの空手家で、その手ほどきも受けたそうです。

1951年宮崎大学空手道部創立と同時に師範となった座波会長は、その後大阪へ移り住み同門人の道場で指導補助なども務め その後、一時名乗っていた「剛柔流心道会」を改め、1987年には「心道流空手道心道会」として発足しました。

現在、座波 仁吉氏は初代宗家となり、心道会第2代会長松山公大主席師範へと引き継がれました。

その高弟で、数百人の社員を抱える会社の代表取締役も務めたという異色の経歴の持ち主でもある心道流空手道教士八段、宇城 憲治氏は、古伝空手の型に隠されてる術とその理合を体現できる一人として、その名を知られています。


参考 「心道流 - Wikipedia」 「宇城憲治 - Wikipedia」 「宇城憲治 UK実践塾」


武道の原点―世界へ発信する創造のエネルギー
板垣恵介の激闘達人烈伝(板垣 恵介著)で、はじめて宇城 憲治氏のことを知り、最初に購入したのがこの本です。拳による打撃・蹴りだけでない、投げが当たり前に書かれていて、一つ一つの型の動きを写真で見せながら説明、そしてはじめて聞いた分解組手なるものの存在。
極真空手や芦原空手ぐらいしか知らなかった空手のイメージが、一気に変わってしまった一冊です。


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(考)
「武術」とは・・闘う技術である。折れない心と争いを生まない精神を培う道であり、より高いレベルを目指す探求でもある。 武道や格闘技とは違うのか、護身術と云われてるものと同じなのか・・・達人でもない僕にはわかるはずもないことです。

「年を重ねても衰えることなく、進化し続けることができるもの」 それが、自分の中での一つの定義です。


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